さて、六月に入り早くも一週間と少しが経過しました。先日の六月六日の天気は雨でしたね。子どもの頃に「六月六日に雨ザーザー降ってきて」と歌いながら、コックさんの絵を描いたのは懐かしい思い出です。
さて、皆様のお手元にも神社より「大祓」の人型は到着致しておりますでしょうか?もしお手元に無く、必要であれば神社授与所にてお渡し致しておりますので、お気軽にお声がけ下さいませ。
写真1:忌宮神社の大祓の人形
では、本日は「大祓」の「歴史」について、神社では無く宮中を中心にお話ししたいと考えております。大祓と聞かれますと、皆様は当神社の摂社、八坂社における「茅の輪」であったり、七月の八坂祭の際に私ども神職が毎日百巻奏上しております「大祓詞」をイメージされるかも知れません。
『古事記』を紐解いてみますと当社の御祭神であられます、仲哀天皇も「大祓」をお話しする上では外せない天子様であったことが分かります。
『古事記』仲哀天皇段における仲哀天皇崩御の直後の内容として、
殯宮に坐せて、更に国の大奴佐を取りて、<…分註中略…>生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、…以下省略…
(『日本古典文学大系1 古事記 祝詞』,岩波書店,昭和33年,p.229)
とあり、「大祓」の初見です。ここで出てくる「大奴佐(おほぬさ)」は、その形状などは不明ですが、同じ呼び方をするものとして「大麻(おほぬさ)」があります。これは今日私どもが神事の際に、最初のお祓いである「修祓(しゅばつ)」において用いる祓の道具です。
写真2:大麻(おおぬさ)
こうして行われ始めた大祓ですが、次第に国全体を祓い清める意味を持つ様になり、宮中を中心として執り行われる様になります。
『日本書紀』天武天皇五年八月条には、国を挙げての大祓の様子が書かれています。
辛亥(かのとゐのひ=天武天皇五年八月十六日)に、詔して曰はく、「四方に大解除(おほはらへ)せむ。…省略…」
(『日本古典文学大系68 日本書紀下』,岩波書店,昭和40年,p.424 ※補注は筆者による。)
この引用では、省略部分に「大祓」に際していろいろと用意した、贖物(あがもの)の種類が記されています。言わば、科料とも言う事が出来、日本における大祓はかつては刑事罰における贖罪の観念もあった事が窺えます。
時代は下って奈良時代に入りますと、明確に宮中においての「大祓」が定まります。大宝元年(701)の今で言う日本の憲法である『大宝律令』では、「大祓」は国の行事となりました。その翌年の大宝二年(702)には十二月末に「大祓」が登場しています。それによれば、
壬戌(みずのえのいぬ=大宝二年十二月三十日)。大祓を廃せしむ。但、東西文部解除、常の如。
(『新訂増補 国史大系 続日本紀 前編』,吉川弘文館,昭和44年,p.16 ※書き下し文、補注、読点はブログ筆者による。必要に応じて漢字を現代の漢字に書き換えた。)
とあります。文章の意味からでは、ここで一旦ですが大祓は廃止または中止になったみたいですね。ちなみに、後半の「東西文部解除(やまとかふちのふひとべのはらひ)」は後ほどお話し致しますが、天皇陛下の祓です。
写真3:『国史大系 続日本紀』(ブログ筆者蔵書)
さて、大祓は六月ないし、十二月の晦日に行われる事が定められました。実際には、臨時の大祓も執り行われており、例えば天皇の即位である大嘗祭、伊勢神宮や賀茂社(現在の下鴨神社・上賀茂神社)にお仕えしていた斎王・斎院の選定などです。
では、六月や十二月に大祓が定まった当時は、どの様な感じだったのでしょうか。少し、史料を見てみましょう。
かつての日本の法律であった『律令』の解説書である、『令義解』神祇令条には次の様に記されています。
凢六月十二月の晦(みそか)の大祓には<…分註中略…>、中臣、御祓麻(はらへのぬさ)を上(たてまつ)れ。東西文部(やまとかふちのふんひとへ)、<…分註中略…>祓への刀(たち)を上(たてまつ)り、<…分註中略…>訖(をは)りなば、百官(もものつかさ)の男女、祓への所に聚(あつま)り、中臣、祓の詞を宣たまへ。卜部、解除(はらへ)をせよ。
(『新訂増補 国史大系 令義解』,吉川弘文館,昭和51年,p.80 ※書き下し文、補注、読点はブログ筆者による。必要に応じて漢字を現代の漢字に書き換えた。)
非常に具体的ですね。上記の文章のうち、「中臣、御祓麻(はらへのぬさ)を上(たてまつ)れ。東西文部(やまとかふちのふんひとへ)、<…分註中略…>祓への刀(たち)を上り、<…分註中略…>」までが天皇の祓いを示しています。
天皇に対する祓は、東西の文部(ふびとべ)が祓刀や人形を奉りますと、天皇は人形に息を吹きかけたそうです。現在の、一般的な大祓の人形のルーツとも言えましょう。
一方で一般の官人への祓は、「訖(をは)りなば、百官(もものつかさ)の男女、祓への所に聚(あつま)り、中臣、祓の詞を宣たまへ。卜部、解除(はらへ)をせよ。」が示しております。当時の大祓は、二段構成だったことが分かるかと思います。
二段構成であると言う事は、大祓で奏上された祝詞も二種類であり、前者の天皇の祓いでは「東文忌寸部献横刀時呪(やまと「かふち」のふみのいみきべたちをたてまつるときのしゅ)」であり、漢音にて奏上された特殊な祝詞だったと言われております。
そして、後者で奏上されたのが、現在私ども神職が日々奏上している「大祓詞」の原型でした。
「中臣」や、「卜部(うらべ)」の名前が出てきますが、両方共に神代より天皇にお仕えしてきた神祇祭祀の家柄です。特に、「中臣」は平安時代は神祇祭祀の家柄だけでなく、中央政治にも力を出していた家ともルーツが一緒です。藤原氏の流れです。
これらの祝詞は、平安中期の法律である『延喜式』の「巻八・祝詞式」に納められており、現在各地で行われている「大祓」は、その昔は国家プロジェクトであった事が窺えます。
では、平安時代の史料である、『西宮記』に記されている平安時代の大祓の様子を見てみましょう。
延喜元年(901)閏六月晦日、大祓有り。
上卿、朱雀門に着く。<・・・分註省略・・・>内侍着く。<・・・分註省略・・・>神祇官は祓物を置く。祝師着く。<・・・分註省略・・・>祝ひ了(おはり)て、神祇官は祓物を徹す。祝師退く。神官は大麻(おほぬさ)を曳きて各(おのおの)退く。内蔵(くら)祓。<・・・分註省略・・・>當祓。<・・・分註省略・・・>
(『西宮記』,近藤出版部,明治36年,pp.166-167 ※書き下し文、補注、読点はブログ筆者による。必要に応じて漢字を現代の漢字に書き換えた。)
この史料は、『延喜式』が出来た頃の時代、平安中期の内容です。親王以下の宮中の人々が朱雀門の前に参集して、大祓を斎行している様子が分かります。「祝師(のりとし)」が行事の進行を司っている事も分かります。恐らく、前出の中臣氏でしょう。そして、最後に「大麻(おほぬさ)」を以て祓を行っている事も分かりますが、今日のようにハタキみたいに振るのではなく、当時は大麻(おほぬさ)そのものに触っていた事が分かります。全体的に見て、今日の神社における大祓と類似性があると言えましょう。
ここまで、いろいろと見て参りましたが日本人は「祓」が出来る民族です。それは、日本の国史がはっきりと物語っております。是非とも皆様も、大祓の人形に日々の罪穢を移して祓を行い、残り半年をお元気に過ごされてはいかがでしょうか。
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さて、忌宮神社の境内には多くの鶏が駆け回っております。
神社と動物はとても密接なつながりがあります。一番わかりやすい例としては、御社殿の前にある狛犬や稲荷神社の狐でしょう。忌宮神社の摂社であります「荒熊稲荷神社」にも、狐の像があります。
神社と縁がある動物との繋がりの信仰を「眷属(けんぞく)信仰」と言います。そして、その動物たちは神様のお使い、「神使(しんし)」とも呼びます。
明治時代の官選の百科事典である『古事類苑(こじるいえん)』の、「神使」を見てみますと、次の様に書かれています。
「諸神ノ使者ノ謂ニシテ、多クハ其神ニ縁故アル鳥獣虫魚ノ類ヲ以テ之ニ充テタリ」(『古事類苑 神祇部二』・神宮司庁・明治31年・P.1809 ※必要に応じて、正字を書き改めました。)やはり、特に御祭神様との御縁が深い動物が「神使」となる事が多いようです。
「神使」の初見は、『日本書紀』の景行天皇条、『古事記』の景行天皇記です。両方とも、景行天皇の時の記録に神様のお使いとして、動物が登場しています。景行天皇とは英雄ヤマトタケルの御父様です。
ここまで来て分かった方も多いかと思いますが、そうです。ヤマトタケルの伝承における近江国(現在の滋賀県)の伊吹山での出来事です。『日本書紀』と『古事記』ではここで登場する動物に違いがあります。
まず、『日本書紀』を見てみますと、
「是(こ)の大蛇は、必ず荒神(あらぶるかみ)の使(つかひ)ならむ。」
(新編日本古典文学全集2『日本書紀①』・小学館・1994年・P.383)
とあり、蛇であった事がわかります。
一方で、『古事記』では、
「是(こ)の白き猪(ゐ)と化(な)れるは、其の神の使者(つかひ)ぞ。」
(新編日本古典文学全集1『古事記』・小学館・1997年・P.231)
とあります。皆様がよくご存じの「イノシシ」が伊吹山の神の使いである話は、『古事記』から来ています。
この様に神話の時代から、神様の使いとしての動物たちと私ども人間との繋がりがありました。折角ですので、神の使いとしての「鶏」も見てみましょう。
『伊勢大神宮神異記』によりますと、豊臣秀吉の時代に朝鮮の方々が食用にと、伊勢神宮の鶏を取り寄せたが、返却したそうです。その理由として、食料として それらの鶏を加工しようとした所、鶏に変化が起き、それを神異と驚いて恐れてしまったそうです。伊勢神宮の神使は「鶏」ですね。
この様に、人々に大切にされてきた神社に居る動物たちです。忌宮神社の鶏も例外ではありません。どうか、境内で追いかけ回したりしないで下さい。
なお、神様の使いである動物たちと人々との繋がりをファンタジーの世界ではありますが分かりやすく、親しみやすく描かれているマンガをご紹介したいと思います。
『ぎんぎつね』(落合さより著)
江戸時代から続く稲荷神社の娘さんと、神使である銀太郎との生活を描いた作品です。非常によく出来ており、神社や神道の基礎知識も学ぶ事が出来る内容です。國學院大學が取材に協力しており、東京都神社庁では公式のポスターにも採用されました。
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スサノオの心に邪心が無い事を証明する為にアマテラスとスサノオを誓約(うけい)という占いを行う事になりました
アマテラスはスサノオ持っている剣を受け取ると三つに折ってかみ砕き息を吹きました
するとそこから、タキリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメの三柱の神が現れました
スサノオはアマテラスの勾玉を受け取るとかみ砕き姉アマテラスと同様に息を吹きました
その時オシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコネ、クマノクスビの5柱の神が生まれました
二神はそれぞれの持ち物から生まれた神々を自分の子供としました
そして、スサノオは言いました
「私の心は清く邪な気持ちなどありませんでした。なぜなら私の持ち物から生まれたのはやさしい女の子の神が生まれたからです。つまり私が誓約に勝ったのです」
姉に勝ったと思ったスサノオは高天原で様々な横暴を行うようになりました
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追放される事になったスサノオは『最後に姉上に挨拶してからにしよう……』と高天原に向かいました
スサノオは台風の神さまでもありますので、その力は凄まじいものがあります
歩くだけでも地鳴りが起こります
何の音かと思い高天原の神殿で仕事をしていたアマテラスがふと見ると
髪はボサボサ、爪は伸びきりすごい形相の弟が地響きを立てて近づいて来るではありませんか……
驚いたアマテラスは弟スサノオが国を追放されたので髙天原を奪いに来たのだと勘違いをして戦の準備をし、弟の元へ向かいました
アマテラスは勇ましい声でスサノオに尋ねます
「お前は何をしにやってきたのだ!高天原を奪いにきたのか!?」
スサノオはとんでも無いと驚き答えます
「国を離れる事になったので最後に姉上に御挨拶に参ったのです。決してやましい気持ちはありません」
なかなか疑いが拭いきれないアマテラスは「ならばそなたが正しいか誓約(うけい)によって証明しましょう」
と提案しました
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イザナギはそれぞれ高天原、夜の世界、海の世界を3柱の子供達に委ねられましたが、スサノオノミコトだけは国を治めず長い間、泣き喚いていました
その嘆きで山は枯れ果て川や海の水は干上がってしまいました
更には、悪神や悪霊が一斉に現れ国は荒れ果ててしまいました
これを見たイザナギは尋ねます
「なぜ、お前は国を治めずにいつまでも泣き喚いているのだ?」
スサノオノミコトが答えるには
「亡くなった母のいる根の堅州国に行きたくて泣いているのです」
母に会いたいが為に泣き喚き、国を治めようともしない我が子にイザナギは大変お怒りになりました。そして終には、スサノオノミコトを追放してしまいます
この後、イザナギは近江の多賀に移られ鎮座されます(多賀大社)
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下関市の忌宮神社は長い歴史を持つ由緒正しい伝統のある神社ではありますが、
忌宮神社で送る日常や行事を皆様により伝わりやすいようにブログで綴っております。
地元下関市を初め様々な地域の方にブログを通し繋がって行きたいと、
下関市の忌宮神社は考えております。