境内案内

境内案内

悠久の歴史を刻む社

当社はこの地に鎮座してより、約1800年もの歴史を歩んできました。史書では『帯中日子天皇、坐穴門之豊浦宮、及筑紫訶志比宮、治天下也』と古事記に記され、鎌倉時代後期に描かれた「忌宮神社境内絵図」では当時の様子を今に伝え、県内有数の古社としてご参拝いただく方を悠久の歴史へと導いております。

忌宮神社の由緒

「古事記」「日本書紀」等の書物によれば、九州の熊襲平定のため西下された仲哀天皇と神功皇后は、本州の西端で九州を真向こうに見据える要衝のこの地に8年正月までご滞在になり、斎宮を建て神祇を祀られたのが忌宮の起りとされております。のち聖武天皇の神亀5年(728)、神託によって筑前香椎宮より神功皇后の神霊を勧請して中殿に奉斎し、相殿として仲哀天皇、応神天皇をお祀したと伝えられております。

またの社伝によれば、9年2月に香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にあり、天皇の神霊を鎮守した御社を行宮にちなんで豊浦宮と称し、くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称する三殿別立の神社でございましたが、中世の火災により豊浦宮、豊明宮が焼失し、忌宮に合祀したと伝えられております。

宿禰の銀杏

宿禰の銀杏

御祭神仲哀天皇・神功皇后・応神天皇にお仕えした大臣武内宿禰手植えの銀杏と伝えられる古木です。
銀杏が3代に渡り繁り毎年多くの実を付け開運と子孫繁栄の御利益があると云われており、神職が一つ一つ剥き授与品となります。

鬼石と数方庭祭

豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将・塵輪を射倒しその首を埋めたとされる場所です。塵輪の顔が鬼のようであった事から「鬼石」と呼ばれています。
毎年8月7日から13日までの毎夜この鬼石を中心として広庭で「数方庭」が行われます。男子は幟を、女子は切籠と呼ばれる灯籠を吊した笹竹をもち、鉦や太鼓の音色に和して鬼石の周りを踊り舞います。

鬼石と数方庭祭
蚕種渡来の地記念碑

蚕種渡来の地記念碑

蚕種とはカイコの卵のことで、三代実録によれば今から約 1,800年の昔、仲哀天皇の御代に中国から秦の始皇11代の孫功満王が渡来し、蚕の卵を奉献したとされ、ここから日本の養蚕が始まったと伝えられる記念碑です。

原生林が生い茂る国指定天然記念物
満珠・干珠

長府沖に浮かぶ、神話と伝説の島、満珠・干珠は忌宮神社の飛び地境内です。
神功皇后が新羅出兵の際に住吉大神より授かった「潮干珠(しおひるたま)、潮満珠(しおみつるたま)」を海にかえすと二つの島になったと云われております。

満珠・干珠
荒熊稲荷神社

荒熊稲荷神社

文化・文政年間、長府藩11代藩主毛利元義公が江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて御分霊を勧請し産業の繁栄を祈願しました。
嘉永元年に現在地に遷して社殿を再建、以来広く信仰をあつめ特に勝運・失せもの発見に霊験あらたかと伝えられています。

さか松

神功皇后が新羅ご征討に際し、お手つから小松を逆さまに植えられ「我志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられています。明治初年に火災に巻き込まれ後に枯死し、現在はその根幹が玉垣の内に保存されており、それに倣って松が周りに松葉を茂らせております。
願掛けに力を発揮すると云われております。

さか松
相撲資料館

相撲資料館

山口県出身の故放駒親方(元大関・魁傑)は、荒熊稲荷神社の祭礼「三日相撲」に毎年参拝され、放駒部屋発展などを祈願されておられました。その御縁から荒熊稲荷神社改築10周年を記念して三日相撲放駒部屋相撲資料館を開館いたしました。

開館時間 9時~16時
(入館は3時30分まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は開館)
入館料 御芳志

宝物館

収蔵の資料は、古文書・刀剣・武具・能面・祭器具・楽器・絵馬など400点余あります。中でも、足利尊氏以下一族四名の法楽和歌・武内大宮司家文書並びに境内絵図、および伝則宗・長船盛光の太刀は国の重要文化財に指定されています。
狩野芳崖の絵馬は県の文化財に能面・狂言面は市の文化財に指定されています。
普段の拝観料はご芳志を頂いておりますが重要文化財展などの際は特別拝観料を頂いております

宝物館

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